luecke

夢見る文系スケートボーディング愛好家

"A SOCIAL SCULPTURE FOR THE UNSOCIAL TYPE" Hellozine #13

昨年夏の『In Search of the Miraculous』発表からまさかの本人来日まで続いた2010年、怒濤のPontus Alvラッシュ。その締めくくりともいえる自主出版のインタビュー本がこのHellozineの13号。『Dirt Ollies』『Oldschool & Newschool』やCARHARTTの数々のプロジェクトに携わってきたフォトグラファーAlexander Basilがグラフィック・デザイナーLutz Erianと2人で発表しつづけているHellozineは号によってテーマが違うためにその形態も映像〜CD〜本と毎号変化する、ジンを超えた独特のメディアとなっております。この13号はシンプルな装丁ながらもハードカバー本というちょっと豪華な仕様で、Pontusのウェブから通販するとPontusが中の写真に手書きのイラストを加えてカスタマイズしてくれ、さらに豪華な1冊にしてくれます。
これまで訳してきたものと重なる内容も含んでいますが、作品『In Search of the Miraculous』、そしてPontusのスケートボーディング〜地元マルメ〜アートに対する想いを存分に語った濃いインタビューでしたので翻訳せずにはいられませんでした。原本には『In Search of the Miraculous』からのスティル写真がふんだんに配されており、当ブログにもPontusのウェブなどで入手できた分だけ、できるだけ原本に近い配置で掲載しましたが、これがすべてではありません(また前述のように本人から通販した場合にはさらに手書きのイラストが加わります)。また、今後Hellozineのウェブから購入した場合には翻訳バージョンをジン形式にした別冊もさらに付いてくるそうです! こちらの訳を読んだ後からでも是非とも原本も入手されることをおすすめします。

"A SOCIAL SCULPTURE FOR THE UNSOCIAL TYPE" Hellozine #13 translated and shared on the internet with permission
Original interview by Alexander Basile
http://www.hellozine.com/publications/
All images from "In search of the Miraculous" a movie by Pontus Alv(except the zine image above)
http://www.insearchofmiraculous.se
translated by Katsushige Ichihashi

『非社会的な者どものための社会彫刻』Hellozine #13

この10年間にスウェーデンはマルメのサウナの中からドイツはベルリンの地下鉄、はたまたモンゴルの草原にてテープ・レコーダーに収められたPontus AlvとAlexander Basileの数えきれないほどの会話を経て、最後に両者は2010年8月7日にスイス、バーゼルのホテルでこの懇談に至った。

Basile... まずは作品のタイトル『In Search of the Miraculous』からはじめようか。オランダ人アーティスト、バス・ヤン・アダーの作品にも同名のものがあるわけだけど... 彼の作品と君の映画との関係は? 無名ながらもかなりの影響力をもつ彼の作品とは何かしらつながりを感じている?

Alv... バス・ヤン・アダーの最後の傑作『In Search of the Miraculous』にはいろんな意味で感動させられて、随分と影響を受けたよ。彼の遺作はすごくロマンティックで、夢のようで、同時にものすごく悲しいものだ。彼はグッピー13という機種の13フィートの小さなヨットを改造した「オーシャン・ウェーヴ」号で大西洋をアメリカからヨーロッパへと横断しようとした際に海の上で行方不明になってしまった。それこそまさに『In Search of the Miraculous』と名付けられた彼のアート・パフォーマンスの過程のひとつだった。船出から三週間で通信機が故障し、彼は海上をさまようことになってしまったと言われている。船自体は10ヶ月後にアイルランドの西南西150マイルの海上を半分浸水したような状態で漂っているところを発見されたけど、彼の遺体は結局見つからなかったんだ。船を見つけたスペインの漁船はそれをコルーニャに持ち帰ったものの、後に船は盗まれてしまったそうだよ。アーティストは自らを母なる自然に差し出してしまったんだ。自分の人生まで任せて、海に、未知なるものにすべての決断を託してしまった。海を越えるには奇蹟が必要だろうね。もしも本当に奇蹟というものが存在するなら、今こそその姿を現すべきだ。何がロマンティックかって、遺体が見つからなかったから彼の生死が僕らにはわからないことだよね。ひょっとしたら彼は生きていて、僕らと同じ世界にいるのかもしれない。
スケートボーダーとして様々なものを追い求める自分たちと彼の間にはいろんな共通項があると思うんだ。僕たちは自分の街を離れて未知の領域に向かう。奇蹟を求めて郊外を走り回るじゃないか。小さな田舎町や工場の中、建物の屋上から地下まで探しまわる。そしていつだって次の村にこそ探し求めていた最高のスケート・スポットがあることを願っているだろ? 僕たちも未知の領域に奇蹟を求めているんだ。まぁ、バスはひとつひとつの波の向こう側にそれを求めていたかもね。陸地という名の奇蹟を... 

Basile... 2004年にモンゴルの草原で君が「ちょっと待って... いま作ってるフィルムは絶対にスケートボード・カルチャーに衝撃を与える作品になるから」と言いながら牛を撮影していたのを思い出すよ。確かに『Strongest of the Strange』はスケートボード・カルチャーにすごいインパクトを与えたよね。

Alv... たしかにそうかもしれないけど、質問はなに?

Basile... 『In Search of the Miraculous』は1作目と関連した作品だと言えるかな?

Alv... もちろんつながっている... 物語の続きで、新しく登場する人もいれば去ってしまった人もいるけれど、シーン自体は変わっていないし、同じ街。たとえば1作目にもTBSトレイン・バンクは登場してるけど、当時は1カ所をスポットとして滑っていたのが2作目ではTBSトレイン・バンクが(あれこれ増築して)完成したフル・スポットとして登場する。そしてステッペ・サイドでのいろんな浮き沈み... 作り上げたかと思えばまた消えてしまう様を見せている。僕はひたすら自分のまわりにいるスケーターたちを追いかけて、マルメ周辺で起こることを記録しているだけなんだ。本当にそれだけだよ! 同じ場所、同じメンツさ。両作品の中でもすごくつながりの強いパートがあるよ。たとえばステッペ・サイドに作ったスポット。『Strongest of the Strange』の続きを見ているような気持ちにさせたかったから古い素材も織り込んだ。あの原付とかさ、あれを見たら「あ、『Strongest of the Strange』の世界に戻ってる」なんて思い出してもらえるかなと思って。

Basile... 郷土愛というか、地域性っていう感覚は君の作品にとってどれくらい大事なものなの?

Alv... ローカルな感覚ってすべての意味において重要なものだね。地元のシーンをフォローするってこと。作品の80%は僕らが育ち、長年居続けているマルメやその周辺で撮影されている。これって登場するスケーターたちをリアルなものとして感じるためにはすごく重要なことだと思う。今日のスケート・ビデオをみると、ほとんどの会社が楽な方法で作品を作っている。バルセロナに行って、そこで5ヶ月過ごして作品の半分を撮影して、あと何カ所か撮影旅行をしてそれで終わり。そしてビデオのパートに登場するほとんどのスケーターは自分たちのルーツとはおよそかけ離れたところで撮影されていることになってしまう。僕はそういうのは嫌いなんだ。僕はスケーターがその人の地元、自分の居場所にいる姿を見るのが大好きなんだよ。彼らが育った場所、子供の頃から滑り続けて今でも滑っている、それこそ15年前から滑り続けている同じスポット。そこにはその人と結びついている意味や歴史が存在するものだし、その様を長年見続ければその人を本当に知ることもできる気がする。たとえばFred Gall。彼はいつだってニュージャージーで滑ってる。地元を滑りまくって、ときにはちょっとニューヨークやフィラデルフィアにも足を延ばすかもしれないけど、それを見て僕らは「Fredはそこで生きてるんだな」って思うよね。そこで彼が滑っていることを実感する。彼はそこで生活していて「うん、彼はそことつながっている」という実感を得られる。

Basile... この前のLakaiのAnthony Pappalardoを見て、まさにそう思ったよ。自分の街だけで滑っていた唯一のスケーターだったよね。

Alv... そう。それを見て「あぁ彼は地元を滑っている」と思えるし、リアルだと実感できるんだ。逆に彼がロンドンやバルセロナやパリでトリックを撮影したって、それは本物のAnthony Pappalardoじゃなくてあくまでも「ツアー中の」Anthony Pappalardoとしか思えないわけ。


Basile... スケート・メディアは自分たちのために新たな素材を生み出すのに、ある意味テクニックともよべるような手法を使うよね。ある能力を持ったスケーターがいたとしたら、彼にフィルマーやカメラマンをつけて、あたかも特別なオーラが生まれるように面白い場所に送り込んで彼のパフォーマンスを映像や写真に収める。たとえば10段ステアのハンドレール上のトリック (訳者 注... 10段ある階段の手すり部分をいろんなトリックで滑り降りること) をみんなが知っているような場所でやっても特に価値はないと見なされるのに、同じような条件でもそのハンドレールの後ろにジャングルがあればそれが雑誌の表紙を飾ることになるような。クリシェの昔のツアーや僕たちが行ったモンゴルのツアーが良い例なんだけど、 もはや単に新たなビジュアルを生み出すためだけ、というところに行き着いてしまっているみたいだ。アフガニスタンの子供達にスケートボードをしてもらおうとしているプロジェクト(訳者 注... SKATEISTAN)もある意味そういう方向に流されてしまっている気がする。すぐに何かしら業界と結びついて、写真家も映像作家もどこかへ出かけてはその場であっという間にドキュメンタリーを作り上げてしまう。人々は常になにかリアルに感じられる新たなイメージを渇望し続けていて、ものごとをじっくりと育て上げる時間さえ奪われてしまっているよね... ビジュアルやイメージにまつわる市場はほとんど資本主義そのものに直結してしまっているようだ。

でも一方で君の新作は「ただ」ローカルなシーンとそこにある歴史をとりあげているだけ。でもそれが作品にすごい強さを与えているよね。他の街もいくつか登場するけれど、マルメの内側そのものに集中して。

Alv... そうだね、ワルシャワのパートもあるし、Enizはフィンランド人だ。編集の段階ではバルセロナで撮影された素材でカットしたものもたくさんあったよ。何人かすごくいいフッテージ(映像素材)をくれたんだけど、いくらトリックが良くても僕にとってイメージに合わなければ興味が失せてしまう。構成にはものすごくこだわっていたから作風に合わなかったんだ。たとえマルメ以外で撮影された素材でもマルメ的な感触を持っていてほしい。フィンランドで撮影されたものでも、スウェーデン国内のマルメ以外の場所であってもね... そこには同じ美学がないと。

Basile... それこそ太陽の光の具合とか。

Alv... そう、光、スポット、スウェーデンっぽい風景が作品への視覚的なつながりを生み出す。こういったドキュメンタリー作品ではものごとを何年間も追い続けることが本当に大切なんだ... 2004年に僕たちのやったモンゴル・ツアーもある意味イージーすぎたよ。やばいスケーターを集めてポイッとモンゴルに送り込んで、お金をつぎ込んで1ヶ月滞在させて、戻ったと思ったらあっという間に本を作って、映画を作って、展示会をやって... だめだとは言わないけど... たしかに良いプロジェクトではあったし... でも僕が作るドキュメント映画は何年もかかって、集中して、身を投じて、そこで生活して、撮影する対象と共に人生を生きる類いのものなんだ。

Basile... それって今日、自分を写真家や映画作家とよぶすべての人にとってかなり良い定義になりえるね。大きなビジョンと計画をもっていて、ものごとの関連性が見えていて、それらを芸術的につなげてみせるテクニックと長年それらを追い続けられる情熱をもった者。今日の写真が向かっている方向とは真逆とも言える。良い作品にしてもゴミみたいなものにしても、みんなが生み出しているのは大量の「単独作品(1枚の写真で作品として完結するもの)」。ある意味、グーグルのストリートビューの主観的なアート・バージョンみたいなものだよね。

作品を通してフッテージのクオリティがかなり高いと思うんだけど、自分で撮影した分はどれくらいの割合なの? こういった個人的なプロジェクトだと他人から与えられた素材も使うのは難しかったりしない?

Alv... 作品の80%は僕が自分で撮影している。撮影に関わっていないのはポーランドのJurasのパートだけだね。自分で撮った素材も少しだけあるけど、基本的にはワルシャワにいる友達のKubaが撮っている。EnizのパートもフィンランドのAnssiとTermuがほとんどを撮ってくれている。みんな良いフィルマーだし、スタイルが違うことがあってもそれはそれでなんとかするしかない。ときには失敗みたいな映像が正解の場合もあるし。いろんな種類の映像を混ぜて使うのが好きなんだ。ものすごくクリーンな映像が最高なのは当然だけど、すべてがクリーンだと作品は平坦なものになってしまう。どこかすれすれの、ぎりぎりの状態で撮影されたライン(訳者 注... スケーターが滑り続けながらトリックを連発する映像)の方がきっちりと撮られたラインよりも力強くてリアルな感触を作り出すこともあるからね。

Basile... すごく荒いユーチューブの映像でも良いと思うのはそこだよね。人が目の前で起こったことをその場でそのまま収めている感じ。でもドキュメント映像や写真を撮ろうとする者にとっては難しい時代と言える。何を作ってもバーチャルな世界にはすでに同じようなものが何らかの形で存在してしまっているわけだから。たとえばセカンド・ライフは自分たちが体験してきた現実を果てしなくバーチャルな世界に映し続けているよね。



Basile... 君みたいに写真にも映像にも深く関わっている者にとって難しいと思うことって何?

Alv... でも僕たちが撮影に行くときって、別に「創作するぞ」という雰囲気じゃないんだ。スケート・ツアーがどういうものかは君も知ってるけど、「よしお前ら、起きろ、車に乗れ、カメラマンも連れてこい」て感じで、そういう仕事モードだと有名なカメラマンやフィルマーが「この作品用に撮影するぞ... なにかしら撮らないと... おい、お前ら、とにかく飛び降りてなんかやってみせろよ」なんていう感じだろ。そしてツアーの終わりには「よし、使える写真2枚にシークエンス(訳者 注... スケートボードのトリックの流れをコマ割りのような連続写真に収めたもの)ひとつにラインが3つか... 上出来だ」と成果を数えて。そりゃさ、マルメでやってるときだってミッションとして行動することもあるよ。でも僕らはもっとクールにことを進める。「おい、やる気あんのか、ここでキメようぜ」なんて言って、何かを成し遂げなければならないようなプレッシャーを与えることはないよ。

Basile... トリックによっては集中して、それこそ何週間も考え続けないといけないこともあるしね。

Alv... うん、でもまだ話には続きがある。フィルマーとして一番大事なのはスケーターにリラックスしてもらって、(自分から何かをしたいと)感じてもらうことなんだ。撮影なんてたいしたことじゃないんだよ、と思ってもらうこと。僕もスケーターだし、この業界のいやな面も経験してきたから、「何かを生み出さなきゃいけない」とまわりから強制される感じは大嫌いなんだ。フィルマーやカメラマンを満足させるためにやらなきゃいけないなんて。おまけに彼らはいつだって暇そうに退屈してて、スケーターが成果を上げないとイライラしだして場の空気を乱しはじめるよね。だから映像作家としては、場のエネルギーや雰囲気作りがもっとも大切な要素になるんだ。みんなで出かけて、楽しもうよ、と。撮る側の僕だって一緒に楽しみたい。出かけよう、みんな友達だし、楽しい時間を過ごそうよ。滑りたい? 滑りたいかも。でもひょっとしたら滑らなくてもいいかも。まぁ、とにかく郊外まで車で行って、スポットを見に行ってみようぜ。仲間のひとりが「やめやめ、今日は滑りたくない」なんて言い出すかもしれない。それならビーチに行ってギャルでも見てようぜ、コーヒーを飲んで、アイスを食べて、ひょっとしたらその後にビールでも一杯ひっかけて、よし! やっとフラット(普通の、平地の地面)をちょろっと滑り出して、そうしてやっと、もしかしたらマジカルな瞬間に巡り会えるかも。そうすればその場で何かをやろう、となるよね。気持ちもひとつになって、陽の光も良い感じだ。友達が何かトリックをやって、僕も少しトリックをやって。まぁ一日がそんな感じで終わって結果的に別に「成果」がなかったとしても、ただ出かけて一日が終わったとしても誰も構いやしないよ。それで怒ったり、気分を害する人間なんていやしない。調子の悪いやつがいたって結構。みんな友達でどうやったって楽しい一日になるんだから。

Basile... でもそうなると時間が大切だよね。君たちは時間をかけるわけだ。ビデオを完成させるのに必要なだけ時間をかけているよね。

Alv... もちろん、時間をかけるよ! 滑りに出かけて、何かしら収めるべきトリックが出てくればカメラを持ち出すし、別にそういう特別な瞬間がなくても滑り続けて楽しもうよ、という風にみている。みんながいい感じになってきて、何かやりたいね、という雰囲気になってはじめてカメラを持ち出すんだ。モチベーションがあがって、スポットを楽しんでいて、自然とやる気になったときだね。「よし来い! やっちまおうぜ! 絶対にやりとげないと!」なんていう人にはなりたくないよ。そりゃ時と場合によっては「集中しようぜ! ここはひとつガッチリいってフィルムに収めてしまいなよ」となることもあるけどさ。でもたいていもっとゆるくて、のんびりとただ滑りにいく感じだよ。

Basile... やっぱり今日はどうしてもトリックを成功させて無事に着地することはできそうにない、と判断して時間をとって後日にまた来る、と決断するのも大事だよね。

Alv... そういえば一緒にあの新しい彫刻のスポットに行ったじゃない? あそこを見つけた経緯も面白かった。それまで誰も行ったことがなかったマルメ郊外のとある地域だったんだけど、キッズのおばあちゃんがそこに住んでいてね。すごいクールなスポットだったけど、行くたびにおおごとになってしまう場所で、滑っているとすぐに誰かが飛び出してきて、ここで滑るな、石の上に飛び乗るな、お前らはここを壊すつもりか、とどなられてしまって。

Basile... 人がそういうリアクションをとるのはなぜだと思う? 

Alv... 僕はスケーターでこれまで何度もキックアウト(訳者 注... 滑っている場所から他人に追い出されること)されたけど、たしかに僕らのしていることって器物破損だよね。ハンドレールがあれば僕らはその上をグラインドしてペンキを剥がしてしまう。見た目にも汚くなるし、以前のパーフェクトな状態には戻らない。(コンクリート)ブロックにワックスをかければ跡が残るし、物の上に飛び乗ったり... 何かしら痕跡を残してしまうんだ。スケートボーディングはとにかくいろんな表層を破壊してしまうものなんだよ。それにたいていスケートボードはうるさい。

Basile... 人はよくスケートボードが物を壊すと言うけれど、僕はスケーターが街の構造を普通の歩行者と同じように使っているにすぎないと思っている。建物の構造やその材質はみんなに使われるために存在するものじゃないの? 

Alv... キックアウトされるのはたいてい上流を気取る人たちの小奇麗で完璧な生活が送られているような地域に踏み込んだときだね。上流ぶった人たちは完璧な世界に生きたくて、それを乱されたくないのさ。

Basile... 街のあちこちに抑圧的な建物が次々にできて、どこに行ってもあれをするな、これをするなと制限だらけなっているけど、スケートボーディングみたいなものが本当に自分たちの街の建築に影響を与えているのが自分にとってはすごく興味深い。だって「スケート・ストッパー(訳者 注... その場所でスケートできないようにわざわざ特殊な突起物を付けたり、鉄柵やチェーンを付けたりすること)」が付いているせいでほとんどのベンチでは横になれないし、手すりは誰もスケートできないように変な造形になっている。サンフランシスコの街は水ぼうそうにでもかかったかのようにスケート・ストッパーの突起物だらけになってしまって、街はある一定の使い方しかできないように作りかえられてしまっている。でも君のビデオでは、君たちは逆に街に働きかけている。しかもその方が楽しそうに思えるからすごいよね。

Alv... そうだね、僕たちは街を使うよ。人が完璧なスケートパークを指差して「あっちで遊んでろ」と怒ってもね。

Basile... それも不思議な感覚なんだよ。今のキッズたちはスケートボードはスケートパークでするものだと思い込んで育っているよね。

Pontus... そうだね、僕の地元の子供たちもそうさ。環境の整ったインドアのスケートパークにスケートボードを教える学校まである。そこで習って、パークで滑って、さらにマルメには他に屋外のパークが三つもある。みんなここで育って、この整った環境の中を滑るのに慣れてしまうんだ。だからわざわざ路面が荒くて、滑りづらくて、グラインドしにくい縁石とかブッ壊れた環境の中をストリート・スケーティングする理由が無いんだよね。だってスケートしやすい場所があるんだから。今やストリートで滑るやつなんて数人しかいないよ!
僕は荒いスポットや悪条件の場所が大好きだ。本当にくそみたいなものでも滑り倒す! そういうスポットの方が見栄えもいいし、やるのも楽しいし、本来滑るべき場所じゃないところ、あるいは荒いところ、だめな場所を滑るというアイディアというか、その精神が好きなんだ。やる気と力さえあれば滑れないと思われている場所でさえ滑ることができるんだって証明するのが好きだ。どんな方法を使ってでも、それもくそであればあるほどアタックせずにはいられない!
でも完璧な環境で滑りはじめた子供たちの体の中にはそういった気持ちが宿らないから、悪条件の中を滑る理由が生まれない。逆にそういう悪条件のなかで育って、くそみたいな場所ばかり滑り続けてきた僕には完璧な環境こそ、くそにしか思えないんだ。与えられた永遠の存在、つまりスケートパークなんてすべて事前に定義されてしまっている。儀式みたいなものじゃないか。ここを滑るんだ、ここから入って、そっちに行って、この辺りにいくつかラインがあって、こっちに、あっちに... はい、終わり! あとはこことここでトリックを練習して... ってまるで死んでるよ! 場のエネルギーが死んでしまっている。もちろんスケートパークでもクリエイティブでいることは可能だけど、ストリートで冒険する方がずっと楽しい。ストリートを探検して、何が起こるか見てみろよ。自分が何を滑るのか分からない方角を目指して、どこにたどり着いて、どうなるのか見てみようよ。

Basile... そういった経験はトレーニング用に設計された環境から一歩でも出ればいくらでも得られるものだよね。

Alv... パークにはキッズにその母親たち、ローラーブレーダーにロングボーダー、オールド・スクールからニュー・スクールまで、いろんな人がみんなして集まっている。でもね、僕にとってスケートボードはそのみんなと一緒にやるものじゃないんだよ。「やぁチビちゃんたちにお母様方、ごきげんいかが? ヘ〜イこっちはローラーブレード・キッズかい?」て感じで楽しむものじゃない。逆にそういった要素は僕をげんなりさせるだけなんだよ。そんなのじゃやる気なんて出ない! ヤバいスポットに最良の友達と一緒じゃないと。それでこそその気になるってもんだよ。みんなが僕のまわりに群がって僕のエネルギーや流れを妨げるような状況じゃなくてさ。フル・スピードで突っ込んでいきたいのに目の前によけなきゃいけない子供が10人もいるようなところだとね。でも、まぁスケートパークもある意味では良い場所になり得る。「ストリートを滑ろうぜ」と出かけたところでただ車で走り回ったり、ストリートをプッシュしたりするだけで終わってしまった場合にはパークに戻ってのんびりとクルーズできれば気持ちも晴れる。それはご褒美というか、おまけみたいなものだね。僕もたまにはパークに行くよ。ただ練習したいとき、特定のトリックを試してみたいときもあるから。

Basile... ビデオを通してDIY(Do It Yourself)精神を説明することによって君はまさにムーブメントを起こしたよね。ドイツでみんながスポットを作りはじめたとき、それらは明らかに君の1作目の『Strongest of the Strange』に影響されたものだと見てとれるものばかりだった。今作ではさらにそれらに「社会彫刻」という名前さえもつけたよね。それは社会的な存在のあり方や機能を非常によく表していると思えるし、君がヨーロッパ全体のスケート・シーンに与えたものは意義深く、人はそれを最良の形で受け取っているとも思うんだけど、君は自分が、特にヨーロッパにおいて、DIYムーブメントの主な原動力であることは自覚してるかい? 

Alv... まず、絶対に言っておかなければならないのは、僕がそのムーブメントをはじめたわけじゃないってこと。「僕」じゃないんだ。いつだって「僕たち」だった。どのプロジェクトもみんなでやりとげた。もしかしたら僕は他の人よりも少しだけ強くものごとを押し進めたりした中のひとりだったかもしれない。過去のプロジェクト、たとえば最初のコンクリート・プロジェクトだったサバンナ・サイドのとき、みんな「あぁ、やろうぜ。作ろうぜ!」て感じでいつもそのことを話題にあげていた。ビールを飲んではそれについて話し合ってさ。みんな実際にことがはじまるまで半年くらい話し合うばかりだったからもう僕はうんざりして「よし、やろうぜ。俺は明日8時に起きてその場に行って、道具と材料を揃えるからみんなでやろうぜ」と言ってみんなをせき立てる役割だったことはあったよ。そうしたら他のやつも来てくれて、みんなでことにあたった。
もしかしたら僕が実現にこじつけようとする役なのかも。リーダーってわけじゃなくて、とにかく何かやろう!とする人。とくにサバンナ・サイドのときはそうだったね。マルメでも本当に特別な場所だった。最高のスポットだった! みんなひとつになっていたし、みんなを駆り立てる存在だった。みんなにとっても新しい体験で、全員で協力しあってやりとげた。本当にたくさんの人が助けに来てくれたし、みんなに愛されて、みんながスケートしにきて、良いクルーができあがったし、場は最高だった。これまでのどんなプロジェクトと比べても最高だったよ。絶対にね! 初めてのプロジェクトだったし、みんなが一番活発に動いてくれて、みんなが親身になって働いてくれていた。
でもサバンナ・サイドのあとはみんなあきらめてしまった感じだった。サバンナ・サイドが潰されてからは僕とあとひとりだけで次のプロジェクト、ステップ・サイドに挑んだ。こっちは最初、クレイジーすぎて全然滑れなかったんだよ。作りが難しすぎて。でもその内に、古いことわざにもあるように、作ってしまえば後はついてくる!という感じで。誰かが作りはじめればみんなも戻ってきてくれてまたクルーになれるんだよ! ステップ・サイドは最初きつかったね、僕と友達ひとりだけだったから。でも僕はとにかく「やろうぜ」と押し進めた。

Basile... そして君のビデオがヨーロッパのスケート・シーンに与えた影響については?

Alv... たしかに『Strongest of the Strange』ですべてがはじまったかも。でも、僕のやったことは新しいことではなかったよ。アメリカや他の国ではそれまでにもいつだって誰かしら自分たちでスポットを作ってきたからね。ただ、そのアイディアを人がもっと共感できるような、自分たちにもできるんじゃないかと思わせるような形で提示してみせたことが作品を特別なものにしたのかも。なんだ、このビデオに出てくる連中は自分たちでスポットを作ってるじゃないか、しかもみんな楽しそうだ。おまけに結構簡単そうに見えるぞ。木材で枠を作って、それを何かで埋めて、その上にコンクリートを盛るのか。う〜ん、すんげぇシンプルじゃん。といった感じでね。たとえばポートランドバーンサイドだと規模も大きくて鉄筋なんかも使った本物もコンクリート・パークだけど、ここマルメではもっと地に足の着いた、普通の人も共感できる小さな規模ではじめたものだったからね。巨大な施設じゃなくて、本当にシンプルに見える、小さな小さなものだから自分のものとして受け止められるし、やってみたくなったんじゃないかな。でも市の連中にブルドーザーで潰されてしまったんだよね。作品を見ればその過程を追っていけるよ。

Basile... 1作目では(そういったDIYスポットを)かなりアーティスティックな感じで取り上げていたけれど、この2作目ではオープニングでまるで教則ビデオみたいに作り方を見せているよね。

Pontus... そうだよ、だってそれが僕のメッセージだからさ。2作目ではやり方を本当にシンプルに見せることで人に躊躇させることなく自分でも何かを作ってもらえるように仕向けたかった。本当に簡単だからさ。まぁはじめは作り方がちょっとわかりづらいかもしれないけど、コンクリートの混ぜ方や扱いに慣れれば本当にすぐになんでもパッと作れるようになるから。今やマルメにはコンクリートのどんな使い方でもわかる20人ほどのクルーができあがったくらい。君の住む場所が街であろうが、小さな村であろうが、コンクリートはどこをやっつけるにも最適の材質だよ。

Basile... 誰かが定義した環境なんて好きなように使ってしまえばいいんだよね! 

Alv... 新作は本当に「バーン、新しいスポット登場。くそ、潰された。じゃあまた新しいスポットを作っちゃえ。結局それもいずれ消えてしまうけど、いいじゃないか! もうひとつ作ろうぜ。今回はすぐにできたぜ、もう完成だ!と思ったらまた誰かに潰された。じゃあまた新しいのを作ろう。そしてこっちには市が作ったやつだ、オッケー?」といった調子なんだよ。本当に簡単そうに見せることによって人に今度こそ外に出て、何かを作らせようとしているんだ! とにかくやってほしい! 座り込んで待つのをやめて、はじめてほしいんだ。1作目のビデオでもメッセージとしてサウンドトラックの後ろの方で「もうこの街はいやだ、こんな場所はいやだ」という声のする箇所があるんだけど、スケーターってのは座り込んだまま泣き言を言ったり、まわりすべてに文句をつけたりするエキスパートでもあるんだよね。市に対して文句を言ったり、スポットがくそだったり、どの場所もだめだったり、そしていつも「あぁ、みんなで気軽に行ってのんびりしたり、スケートできたりするようなスポットがあればなぁ。みんなで遊びにいけるような楽しい場所ってないかなぁ」なんて言ってる。誰もがそんな場所を夢見てる。みんなが集まれるような、社会彫刻さ! そしてそれは... まさに君の目の前にあるんだよ。その場所まではあと一歩だけ。友達を集めて、出かけて、どこか場所を見つけて、コンクリートを混ぜればバーンとできあがりさ。人生を変えてごらんよ。簡単だから。

Basile... でもそれこそがこのグローバルな市場構造における問題でもあるんだよね。だってメディアはいつも他人の人生の方が良い人生だと、よそのスケート・スポットの方が良いスポットだと吹き込もうとするものだから。人が探し求めているものは実はその足元にあるのに。

Alv... その哲学こそが人生の本質だろうね。人はいつだって他人が持っているものしか見ない。そして自分がそれを持っていないことを嘆き、それを夢見てしまっている。バルセロナをみてみろよ、スポットがいっぱいある、世界で一番ヤバい場所だ、とか騒いで... そして世界中の人間がそこに集まり、途端にその場所は面白くもなんともなくなってしまう。僕にとって面白いのは「ここには何もないかもしれないけど、とにかく何かやってみようよ!」ていうことなんだよね。僕はマルメの90年代がどういうものだったかを知ってる。スケートボードにとっては最悪の状況だったよ。僕がマルメからアメリカに渡った頃なんて誰もこの街のことを聞いたことすらなかった。君だって2001年に初めてここに来たときに言ったよね「この街はどうなってるの? 何もないじゃないか!」って。でもここにだって何かあるんだよ。僕たちがいたからね! いつだって僕たちが何かをやりはじめていた。もちろん、街を歩いてみてもあちこちにすごいスポットがあるわけじゃないよ。今だと市の方も僕らにいろんなものを与えてくれるけど、90年代はそうじゃなかった。マルメはうらぶれた工業都市で、スケート向きの街ではなかったし、この10年間にいろんな狂ったできごとが起こり、僕たちだって死にものぐるいでやってきたよ!
今では市ともいろんな形で協力して、市の方も僕らに耳を貸してくれるようになった。市にスケートボーディングを引き寄せようとしている。スケートボーディングがいかに大きな存在で、どれほど市政とそのイメージにプラスになるかを理解しはじめたからね。今やマルメには大きなスケートパークがあり、僕自身は気に入らなくても、それは観光名所のひとつになりつつあってマルメ市に注目を引き寄せている。スケーターやいろんなイベントのおかげで人が旅行中や休日に立ち寄ってくれるようになってきた。みんな、どんなものかを確かめに来るわけさ。ここにあるねじれた構造のビル、ターニング・トルソとStappelbaddsparkenスケートパークは旅行者むけのパンフレットを見れば観光の目玉、第一位と二位くらいの勢いで紹介されている。みんな大好きなんだよ。本当に僕たちの小さなグループだけだよ、他の場所の方がいいなんて言ってるのは。あそこはちょっとしたサーカスみたいな状態だからさ。言ってみれば公園で、みんなは雰囲気を楽しんでいる。いろいろ言い出すと止まらないけど、これ以上文句を言うのはやめておくよ。市が「大成功だ、もっと作ろう! 各地域にひとつづつ小さなスケートパークを作るべきだ」と気づいてくれたのは良いことだとは思うけど、今やスケートパークは子供向けの新たな公園になってしまっている気がする。しかもそれは... 誰もが気に入るものじゃない、ってことさ。

Basile... でもスケートパークは社会的装置(social machine)という観念を実現できるかもしれないよ? 

Alv... わからない。限られた範囲内では機能するかもしれないけど。 非社会的な者どものための社会彫刻、それこそが僕の哲学なんだよ! 僕らが作るものは社会彫刻。みんなが集まるからね。ただ、集まる人種は非社会的な連中ばかりってこと。みんなと一緒に大きなスケートパークにいたいと思うようなタイプじゃないんだ。僕らは大勢と一緒に、大きなサーカスの中にいたいわけじゃない。ストリートを滑り、常に何か新しいことができないかと探し求めていて、ことを起こして、大きなシーンとは無縁の変わり者の集まりなのさ。たまには公のスケートパークに行ったり、デモを見に行ったりもするけど、いつも自分たちで好きなことをやってる。いくら大きなスケートパークの方が完璧な環境に見えるとしても、僕らは自分たちのくそみたいなDIYスポットを滑る方が楽しいんだよ。

Basile... そういえば君も設計に携わっていたあのパークに連れていってくれた日のことを思い出すよ。子供が多くて君は全然自由に滑られなくて、それどころかその子たちの母親か誰かによそで滑るか、ちょっと後で出直してくれば?なんて言われて追い出されたよね。

Alv... まさにそれなんだよ。スケートパークはいつだって公共の場なんだ。そして公共の場には公共のルールが適用される。みんなのために存在する場だからこそ僕にとっては問題なんだよ。たとえそこが最高のパークで、素晴らしい場所だったとしても、公共なんだよ。だからいつも子供達やその保護者とか、いろんな人間、みんなと関わることになる。良いセッションには招き入れたくない類いの人たち。楽しいパーティーをしたいときに路上からどっかの馬鹿を連れてくるかい? 違うだろ? 楽しいパーティーは楽しい仲間とするものだ。良いスケートセッションも同じ。良いスポットで良い仲間達と良いスケートセッションを楽しみたいだけ。まわりに10人もふざけたことをするような道化にいてほしいわけないよね? 

Basile... 90年代にはまだスケートボーディングやグラフィティといったサブカルチャーはコアなシーンに属していた感覚があって、誰もがそうやって簡単に触れられるようなものじゃなかったよね。今みたいにマウスをクリックするだけで入れる世界じゃなかった。

Alv... 僕らのスポットはそういう与えられた、誰もが手に入れられる場所じゃないんだ。人はよく「お、スケートパークじゃん。俺も滑ろう」なんて調子でやって来るんだけど、少しすると気付く。「うわ、ハードコアな連中が10人もいてめちゃくちゃ滑りまくってる。しかもみんな愛想悪いというか怖いなぁ」。僕らは無愛想とか乱暴なわけじゃなくて、知らない人が来たからって嬉しがって歓迎したりしないだけなんだ。僕らとしては「あ、どうも。あんた誰? まぁなんでもいいけど、そこでおとなしくしててくれ!」という感じなんだよ。それを面と向かって言うわけじゃないけど、そういう冷めた気持ちでいるのさ。まぁ、でも相手が誰かにもよる。名前くらいは知ってるようなスケーターならまだいいんだけど、全然知らないやつが勝手に滑ってると「いいけどさ、何のつもり?」という感じにもなるよね。こちらの言い分はわかってもらえていると思うけど。ここは僕らのスポットで、参加したいなら何かしてくれなきゃ。ちゃんと自己紹介をして「すごい場所ですね、僕も少し一緒させてもらってもいいですか」と一言いうとかさ。

Basile... 『In Search Of The Miraculous』のあるパートでは君がサンフランシスコのスポットを滑る古い411のビデオからの映像を今のスケーターが同じスポットを滑るシーンに絡めて編集していたけど、それってまたもやビデオがいかに歴史を指し示すのに重要な役割を果たせるか、そしてスケート・ビデオがいかにサブカル的な記憶を10年、20年も前のシーンから現在に運んだり、視覚化したり、再構築したりする助けになりえるか、ということを証明している。このビデオというメディアの記憶、記録は上部構造みたいにスケートボーディングとその思想の本質という屋根の下で地球上の何千人もの人たちをつなげているよね。

Alv... 僕は歴史を知ること、つまり先人が君のために何をしてくれてきたのかを知ること、その場に戻ってみることはすごく興味深いことだと思うんだよね。もしも、Natas KaupasやMark Gonzales、あるいは彼ら以前の人たちがいなかったら、彼らを見て育ち、80年代を経て、スケートボードが今日の姿に進化し、発展していく様はどうなっていただろう。だからキッズ達が「Mark Gonzales? 誰それ? ただのオッサンでしょ。FourstarやAdidasで一体何やってんだろ」なんて言うのを耳にすると落ち込むし、怒りがこみあげる。やつらにはわからない、いや、わかろうともしないんだ。彼がいかに重要な人物で、伝説であって、今みんなが滑っているように滑られるのは彼のおかげだってこと、彼がスケートボードの歴史に、そしてなぜ今日のスケートボーディングが今の姿をしているのかという点でも多大な影響を与えていることを。そして他にも特定のトリックの発展や僕らが滑るスポット、スケートボードのカルチャー全般においてもたくさんの人が重要な役割を果たしてきている。そういったことをみんなに思い出させるのは素敵なことじゃないか。大昔に誰かが50-50グラインドをきめたようなスポットでも、今だとスケートボードのレベルが上がったから誰かがもっとすごいトリックをやるだろう。でも先人がいてくれたおかげで今そういうことができるんだよ。

Basile... Marc Johnsonが昔のTransworldのビデオで「俺の宗教をお前にうつしてやる」みたいな発言をしていたけど、たしかに街中で特定の曲がり角、ある特定の構造物を目にするとスケーターはそこにトリックのアイディアを投射するよね。そしてそこを滑る! スケートボード界はいつだって若い子たちの驚異的なレベル、飲み込みの早さに感嘆し続けてきたよね。最近、脳科学的にも証明されているらしいんだけど、脳と体、筋肉、つまりそれらの組み合わせとなる一連のシステムは他者が行う特定の動きを見ているだけでも学習するらしい。つまり、動きを映像化したビデオを見ることはその動きの習得過程の半分に相当してしまうと。脳が他人の動きを見ることで学習するそうだよ。

Alv... 最近、まるでテレビ・ゲームと同じような滑り方をするスケーターがいる気がする。ゲームと同じスタイルで滑っているんだ。ノーリーフリップが、はじいて!キャッチして!上に!とべ!着地!ボン!とまるでゲームみたいな感覚で。スケートボードのゲームを10時間やって、その後10時間は外へ滑りに行って、4時間は睡眠、みたいな生活をしたらどうなるんだろうね。でもいつか現実に起こりそうじゃない? ゲームは完璧なスローモーションも使ってみせてくれて、もうほとんどトリックを習うようなものだし、外で滑ってあの早さでどんなにすごいトリックだってものにしてしまうわけだろ? だってゲームの中で、そしてスケート・ビデオでもすごいトリックばかり目にするからね。でも僕がストリートで滑りはじめた頃なんてさ、Natasがオーリーをしてるくらいで、キックフリップがスローモーション扱いでビデオの目玉トリックだったんだぜ。当時はそれがヤバかったんだけど、今やキックフリップはスケートをはじめて最初の週にマスターした方がいいみたいだね。そんな感じじゃない? 一日目にはボードを手に入れて、さぁドロップ・イン、よしクリア! 次はパークをプッシュして回ろう、 よしクリア! 次の日はオーリーで、三日目にはキックフリップ。

Basile... 今の子たちがそんなに早く学習してしまうのは彼らに到達したい目標がはっきりしていて、ゴールがあるせいかな? たとえばスポンサーがついてほしいとか。

Alv... 君の言う通りかも。いまスケートボードをはじめるとしたらゲームはあるし、フィンガーボードはあるし、ビデオの内容も尋常じゃないし、実際のスケートボーディングのレベルも高くなっている。もしも君が今のキッズならそういうビデオを見て、そこから学習して思うわけだ「よし、いついつまでにプロになりたいなら俺はそろそろMarc Johnsonくらいのレベルになってないとなぁ」とね。そして本当にやってのける。業界も今やスケートボードを仕事にすることができる、それで一発当てることができると思い込ませているからね。プロがいい女にでかい車に家とかを手にしているような状況を見せつけられているわけさ。90年代にStereoのビデオをみても、出てくるスケーターは本当にホームレスみたいなやばい感じだったのに。「見ろよ、Ethan Fowlerの新しいビデオ・パートだ、やっぱプロの生活ってすごくない? ガンガン儲けてるじゃん」という調子ではなかったよね。90年代はもっと「あぁ、サンフランシスコに移って彼は誰かの家に転がり込んでいるんだろうな、寝るのも床の上で。でも彼はスケーターでそれだけで最高にかっこいい!」という感じだったよね。たしかにお金はこの世ですごい力を持っているものだから「うわぁ、スケートで食えたらグッズももらえるし、世界中に行けるし、いいことがたくさんあるんだろうなぁ、車に女に...」とキッズは夢見るわけさ。

Basile... スケートの技術面がスケートボーディングの記録のされ方(つまりビデオや写真)に与える影響についてはどう思う?

Alv... 僕たちがすぐに忘れてしまうのは本来スケートボーディングが何なのか、ということ。スケートボーディングはスケート業界とはちがう存在なんだ。地球上のスケーターの内、ほんの数パーセントしかあんな異常なスケート・ライフを送れない。自分にとって、スケートボーディングはこの地球上で毎日毎日、どんな小さな村にでも存在するものであって、老若男女がただ外に出て滑ってることを意味する。みんな雑誌もグッズもビデオも知ったことじゃないんだ。そういったものには関心がないから特定のブランドとも、最新の広告とも、関係なんてない。みんな友達と一緒に外に出て、四つのウィールで路上を行くその純粋な愛を味わうんだ。でも今の若いキッズたちには(スケートボーディングそのものよりも)スケート業界に強く関心を持つ傾向が広がってしまって、みんなスポンサーがついてグッズをただでもらうことに取り憑かれているようだ。若いスケーターに会うと何かもらえないか、スポンサーについてもらうにはどうしたらいいかと聞かれるけど、それって本当に悲しい。でも、そういう傾向は特に西側世界に強いね。もっと東側に行くとキッズはボロボロのシューズやスケートボードでもすごい滑りをしていたり、果敢に挑戦していたりして、その姿には本当に感動させられる。で、君の質問に対する答えだけど、たしかにユーチューブからはもうありえないくらいに大量の情報や映像を与えられるよね。そしてそのくその中に天才を見つけることもあるだろう。何かすごいものを持った誰か。そして彼、あるいは彼女は世界に発見されることで巨万の富を手に入れる。そしてスポンサーがついて、数ヶ月後には次の天才の登場... 

Basile... どうしてもっと本物の感情のようなものを持ったビデオが出てこないんだろう? とくにドイツだとこの25年、本当の影響力を持ったビデオは登場していない気がする。ローカルな作品にはそういったものがあったかも知れないけれど、メジャーなものには見当たらないんだよね。

Alv... 今日のスケート・ビデオはポルノ・ビデオみたいなものになってしまった。70年代のポルノ業界はまだ作品にちょっとした物語やロマンティックな要素を持たせようとしていたよね。「あら、誰が来たのかしら、ご主人様だわ。ドアをノックしている」なんて調子で芝居じみた70年代のポルノのスタイルは結構面白いと思うんだ。スケート・ビデオでも80年代はそういう感じだったよね。Powellがいて、まさに映画を作ろうとしていた。ストーリーを作ろうとしていた。『The Search For Animal Chin』なんて最高だったじゃないか! でもその後、多少の例外はありつつも、スケート業界全体が完全にポルノ業界になっていったよね、だただたファックするだけ、みたいな。トリックとパフォーマンスのみ、ひたすらファック、ファック、ファック。ロマンティックなものを見せる暇なんて無し、すぐに本題に突入して「ヤル」だけ。スケート・ビデオの問題は、スケート・ビデオを作るという行為が映画作りから派生したものじゃないことにあるんだ。スケートボードのトリックを見せるだけじゃ映画作りにはならないんだよ。それは映画じゃなくて、ただのトリック止まりの映像。

Basile... それはスケート業界以外でも大きな問題とも言える。一般の写真家や映像作家が機材にものすごく重きを置くようになったり。 

Alv... 馬鹿げているよね。キャノン・マーク2(訳者 注...CanonEOS 5D Mark IIのことと思われます)か何かで写真のシリーズを撮ったからって何なんだい? HDが登場した頃のみんなのこだわりようにはびっくりしたよ。Lakaiの新作はHDで撮影されました! とHDであることをいちいち宣言しなきゃいけないなんて。 僕は場合はあれかな、Pontus Alvの新作はVHSにスーパー8、16ミリに8ミリ、携帯のムービーで撮ったものからさらにHDまで! あらゆるメディアのミックス・コラージュでお届けします!とか言わなきゃいけないの? なぜ先に技術面の説明が必要なんだろう。それって映画の内容なんて何も説明してないよね。Leonardo DiCaprio(レオナルド・デカプリオ)の新作映画は35ミリで撮影されてます、なんていうのは40年代にカラー映画が登場した頃に言っていたようなことじゃないか。当時はそれが革命的だったんだろうけれど、HDが革命的なのかは疑わしいよね。多くの人にとってはそうみたいだけど。高画質だから。


Basile... ある意味、業界や人々がどれだけ「魂(のあるもの)」を探しているか、という証拠にもなっているけれど、ただ、魂がなかった場合、ものすごい技術量でそれを作り上げようとしてしまっているよね。Skate & Createコンテスト(訳者 注...アメリカのスケートボード雑誌TRANSWORLD SKATEboardingが主催する映像クリップのコンテスト)で各会社が感動的なくらいに大きな、それこそミュージカルにも見えるようなセットを作ってユニークな映像を作ろうとするのが良い一例じゃないかと思うんだけど。

Alv... 本当は簡単なことなのにね。カメラが映像を作り出すわけでも、カメラが写真を作り出すわけでもないんだよ。技術じゃなくて、その内容、コンセプトとアイディアが作品を作り出すんだ。それはこれからも変わらない。中身が問題であって、どうやって撮られたかなんて関係ないのが写真と映像のルールなんだよ。技術的にすごくて撮影も完璧で、容量も大きくてフラッシュとかいろんな仕掛けがしてあったりしてどんなにすごくても、内容がくそだったら誰も撮影機材なんかに興味を持たないだろう。内容があって、魂がこもっていればポケット・カメラで撮ったものでもすごい作品になることがある。それは何か興味深い対象に目を向けたからなんだ。人生において興味深いものをフレームに収めたからなんだよ。それは映画作りにも、僕のやっているようなドキュメンタリーやいろんな映像作りにもあてはまるルールであって、中身がなければ、どんなカメラを使っても一緒なんだよ! それじゃただの機材オタクだよ。それで何が生み出せる? 誰だってカメラの説明書くらいは読めるじゃないか。

Basile... 君の写真も非常に力強くて、現像の仕方からできあがった写真の見せ方まで独特で君の映像作品にもつながるユニークさを持ち合わせているし、君は8ミリ、16ミリ、HDとVHSの映像を混ぜ合わせてもいつだって最高な出来映えにしてしまえる数少ない人間のひとりだと思う。映像作品は美的で、いつだってそこで見せてくれているものとつながっているように思えるんだけど、いわゆるPontus Alvスタイルというものが存在するのかな? 作品は自分の仕事の仕方にどのくらい影響されていると思う? 

Alv... そうだね、まず、僕はすべてをミックスしてしまうんだ。たとえば、あるスポットの歴史を見せたい場合には古い映像だって使わなきゃいけない。それしかないからね。スーパー8で撮られた場合もあれば、VHSビデオだったりすることもある。そういったものを混ぜ合わせてコラージュしてしまうのが好きなんだ。そりゃ素材がすべて均一だったらいいのに、とも思うんだけど、そんなことはまずあり得ないんだよね。僕はいつも与えられた環境、状況からはじめる。これを見せたい、と思えばそれがスーパー8だろうが、ミニDVだろうが、ユーチューブの映像だろうが何だって使う! だって自分が言いたいことを表現したいわけだから。なんとしても表現しないと。HDの映像にユーチューブをコンピューターの画面から直撮りした映像をつなげなきゃいけないときだってなんとか形にしないと。ちょっとしたエフェクトを加えて見栄えをよくすればいい。僕の手元にはクオリティがまちまちの素材しかないからこそクリエイティブにならざるをえない。フィルターを自分で作ったり、映像をちゃんとまとめるなんらかの方法をみつけないといけない。最悪の素材でも、その低クオリティの映像を最高に見せなきゃ。僕にとってはそういうポスト・プロダクション(編集)の作業はものすごく楽しい。素材が最悪だと逆に面白いね! トリックが良くても映像がだめな場合。この最悪のクオリティの素材をどうやってよく見せようか、というのはまるでゴミの中から金を掘り起こすみたいだ。でも僕は自分にできることをやるだけで、それを特別なエフェクトやスタイルだとはとらえていないよ。ただ心を込めて作業する。自分の魂、エネルギーと心をそこに込めるだけなんだ。僕にとっては自分のすることが自分にもリアルに感じられることが大切であって、ただかっこいいことをやりたいわけじゃない。








Alv... 映像にいろんな画像や視覚効果を盛り込むのはそれがかっこいいからとか、イケてるからじゃない。そんなのじゃただの飾りになってしまう。何か意味がないと。スーパー8の映像を、それが単にスーパー8だからって作品に入れても仕方ない。スーパー8であっても何か意味がないと。どうでもいいような映像をスーパー8で撮って「スーパー8で撮ったからこれはもうアートでしょ!」なんていう人もいるけどさ。なんでもすぐにアートになるの? ただスーパー8で撮っただけで? 頭がおかしいでしょ。何を撮ってるんだい? そこに何が映ってるんだい? どんな内容で、他の要素とどう結びついている? イメージ自体が何かを語っていないとだめなんだよ。フォーマットなんて関係ない、イメージが何かしら自分に語りかけてこないと。ひとつのクリップが次のクリップへとつながっていかなきゃ。映像クリップが他のクリップにどう働きかけるかということに関しては哲学さえ持っている。ある意味、テクニカルな話で複雑なことだけど、クリップが大きな流れと太い赤い糸を生み出すことが大切なんだよ。普通、スケート・ビデオには物語は存在しない。多少あるのだろうけど、それが表立つことはないよね。だからそこからドラマを生み出すには音楽を使って起伏を作り出して、ダイナミックな瞬間、いろんなイメージ、そして間。手をつけられる要素は本当に小さなものばかりだけど、何か自分の琴線に触れるものを作り出さないと。

Basile... 2作目にもまたドラマみたいなものが盛り込まれているけど、 君が今いったように「ドラマを作り出せ」という姿勢を人が単なるスタイルとしてみなすことは怖くない? 

Alv... 僕は何かを狙ってそういう風にしたわけじゃない。「作品を作るから何かドラマが必要だな。あ、おじいちゃんが死んだばっかりだからそれを入れよう」なんてことじゃないんだよ。これが僕の人生だったんだ。僕は祖父の最後の1年を記録しただけ。1年間、彼を写真に、映像に収めていった。その最後の1年間に彼を追い続けたから自分の人生においても大きな部分を占めていたわけで。いつだって祖父は僕にとって大きなインスピレーションの源だった。

Basile... 彼も映像を撮っていたの? ほとんどプロ級と言えるような君の子供時代の映像がたくさん残っているよね。

Alv... 映像作家で、芸術家で、写真家だったよ。祖父は自分でカメラを作っていたりもした。家族中が写真に夢中だったね。祖父も父も自分たちの人生を記録することに熱中していたよ。特に祖父はなんでも記録することに没頭していた。今なら彼のやってきたことのいくつかをコンテンポラリー・アートともよべると思う。彼にはたくさんの変なアイディアがあって常に何かしら実験していたけど、それをアートだとはまったく思っていなかっただろうね。でもそういった彼の人生の様々な断片は子供の頃から僕の中に植えつけられているんだ。僕は彼と一緒に生きてきたし、すべてを見てきたからね。彼がこの世を去るのを見守るのは本当に大きなできごとだった。その時が来るのは分かっていたし、見てとれた。だから最後の1年はほとんど彼に付きっきりでそばにいたよ。インタビューをしてみたり、ちょっと質問をしてみたり、世間話をしてみたりして、ただそばにいて、1年間という長い時間をかけて彼にさよならを言ったんだ。
そしてビデオに出てくる彼の遺体のシーンでは僕が彼に最後のさよならを言っている。僕は部屋に入り、そこですべてが終わる。実際にはもうひとつのドキュメント映画がフィルムの状態で存在するんだけど、そっちは個人的に作っている。ただ、あまりにも個人的すぎるし、深すぎて今の自分にはまだ編集なんてできない状態で、またいつか手をつけたいと思っている。彼の死とはもう少し距離が必要だ。たしかに2作目で彼の死について触れたけど、それを話題として利用するつもりはさらさらないんだ。生と死はどちらも僕が扱うテーマ。スイスのバーゼルに作ったブラック・クロス・ボウルにつけた十字架も自分たちに与えられた時間は非常に限りのあるものだということを思い出させるためのシンボルなんだ。人生はあっという間だよ。僕たちはみんないつか死ぬ。それは変えられない事実。誰も永遠には生きられない。友達のスケーターが2人も亡くなったし、僕の祖父母もそう。だからこの作品を作る段階で4人の人を亡くしてしまっていて、さらにDanielとの友情も終わってしまった。他にもいろんな奇妙な事件が製作過程に起こって僕とこの作品に影響を与えたよ。そしてもちろんそれらはすべて編集された映像にも表れることになる。「あ、また誰か死んだから作品にも入れておかないと」というわけではないんだ。そういった事柄は君の滑りに影響を与えるんだよ。君が常に戦っていること、たとえばヤバいスポットを作った。ある日、何者かがやってきてそれを潰してしまった。そういったことは君の人格にも影響を与える。そこにあったのに、完璧な場所が。ステッペ・サイドの青の時代(訳者 注... そのコンクリート・スポットは当初は白、そして黄、青と増築する度に新たな色を塗られていた)は本当に美しい場所だった。完璧な社会彫刻だった。本当に愛していたのに! ずっとそこでスポットを作り続けていきたかったのに、ある日、誰かがやってきてすべてが消え失せてしまった! あのたった一晩で。いつもそうやって揺り起こされる。 君だって、僕だって、 明日にも死ぬかもしれない。人生が完璧で、すべてが良い方向へと向かっていそうなときだって... こういった美しいものはすべて永遠じゃないんだよ。どんなに完璧で美しくてもそれがずっとは続かないことは分かっている。そうだったらいいのに、と願うものの、たいていそうは行かないよね。そして僕はいつもそういったことと向き合っているんだ。スポットのために戦ったりして。それが僕らのゲームってわけさ。ある意味、面白いんだけどね。

Basile... そうやっていつもすべての物事が作品に影響を与えているわけだね。スケートボーディングに付随するそういった細かな要素に対するスケートボード・メディアの扱い方は君の目からだとどう映るのかな? 

Alv... スケート・ビデオはトリックに焦点をあてていて、少しばかりスポットやその場の空気感にも触れているかもしれないけれど、それよりも深く人生に関わる事柄について語ることはないよね。本物の人生、つまりスケートボーディング以外の要素、ということなんだけど。だってガールフレンドと別れてしまって、打ちひしがれて、落ち込んでいるときに外へ出てスケートすればスケートボードが言ってくれるよね「おい、つらいのかい」って。君のボードは君に嘘なんてつかない。はっきり言ってくれるよ! 気分が最悪なら正直にそうだと言ってくれる。毎日、いつスケートボードに乗っても僕は自分がどう感じているかわかる。「調子はどうだい?」と聞いてくれて10メートルも進めば「OK、人生はこんな感じだよ」と教えてくれる。気分が良ければ滑りも最高になるし、気分がいまいちでも乗り続けるだろうけど、ちゃんと滑られるように努力しなくちゃいけないんだ。ある意味、そうやって悪い状況と戦うこともできるよ。

Basile... 君の作品もそういった要素と戦っているように思えるね。

Alv... もちろんだよ、その記録だもの。人は本物の体験を通して真実を生きるものであって、僕はそういったものすべてをどうにか作品に込めようとしている。ただ、作品にはいつも限りがあってそういった事柄を深く掘り下げるスペースが足りないんだけど、ほんの少しでも感じてもらえたら、と思っている。過去にも現在にも、個人とその人生を取り囲むいろんな要素が存在し、それらすべてが作品にある意味ムードや空気感を与えてくれる。スケートボーディングというものはただ滑ることにとどまらない、ということを少なくとも暗示はできているんじゃないかな。自分の作品に与えられたスペースではそれが精一杯なんだけど。

Basile... で、感触はどんな感じ? 3作目や4作目もありそう? 自分の作品が個人的なドキュメンタリーだというなら生きている間ずっと作り続けていけると思う? あるいは将来、同じくらいの情熱と力を注ぎ込めるような新たなテーマに変える必要があるかも、という感じ? 

Alv... 正直、2作目だって作る予定なんてなかったんだよ。僕がずっと作りたいと思っていた作品は『Strongest of the Strange』1本だけだった。人生の使命だった。自分のスケートボード人生において、自分を表現していて、自分が何者かを見せている映画を1本は作らないといけないと思っていた。『Strongest of the Strange』は僕のスケートボーディングの定義だった! もう、そのもの。それが人生の使命だった。自分自身、そしてまわりにいるみんなのために定義したかった。スケートボーディングの定義を探し求めていた。そして今度の2作目『In Search of the Miraculous』 は自然と作らざるをえなかったんだよ。1作目の後にいろんなことが起こって。「うわ、新しいパークを作ってる! 面白そうだ、撮りに行きたい」とか「新しいスポットを作ろうぜ」といった調子でやり続けた。ただ滑り続けた。でも今やもう予定はとくに立てていないね。僕ももう30歳だし、また5年がかりでスケートボーディングに関するプロジェクトを完成させる気はないよ。もう少し規模の小さい作品なら作るかも。ひとつのスポットにスケーターが2人、それでいて自然に作品が生まれてくれば。でもまた大作の狂ったスケート・ビデオを作ることはないんじゃないかな。スケートボーディングに関してはもっと小さな規模でやっていきたい。2作目だって途中で自分には話が大きくなりすぎた気がする。いろんなプロジェクトがあって、いろんなものを作って、関わるスケーターの人数も膨れ上がって... でも芸術方面に興味があるわけでもないしね。現代美術館かなんかで展示会をして喜んでいる自分なんて想像できない。そういうのは馬鹿げてるよ。ものを作るのは好きだから、いろんなアートを作ることはあるだろうけれど、美術界で成功するために作ることはない。もちろん、僕は何かしらやり続けるだろうし、スケートボーディング以外のアイディアもたくさんあるけれど、美術界に対しては気持ちがまったく動かない。アートの世界には全然突き動かされないんだ。きれいなギャラリーで作品をみせたり、カタログや本を作ったりすることとか。そっち方面に行くことはないね、絶対に! そんなの自分じゃない。


Basile... 『Strongest of the Strange』以降にヨーロッパで起こったことを記録する、というアイディアもあったよね。あちこちに行っていろんな人が新しく作っているものを撮っていくという。

Alv... そのアイディアはまだあたためているよ。アイディアというより、願いだね。やってみたい! 3作目にふさわしい面白いアイディアかも。物語の最終章になってくれそうだ。最終章の3作目は1作目、そしてさらにいま2作目に影響された人たちを探し求めるものに。みんなを訪ねて、一緒に滑って、そしてひょっとしたら何か新しいものを作って。二つの作品が生んだ結果を求めて、それらに光をあてる。プラハチェコでもたくさんのスポットが作られたと聞いているし、「あなたのおかげです、どうです? 見てください」と自分たちで作ったスポットの写真をたくさん送ってくれるファンもいるんだよね。すごく光栄だし、そういったものを自分の目で見るのも面白いだろうし、興味深い方向ではあるんだけど、同時に、僕はもうそういった動きの原動力でいることをやめたい気持ちもある。もう自分の勤めを果たした気がするんだ。僕はメッセージを世に放って、今やそれがひとりで機能してくれていると思う。そういう方向に行って、DIYの第一人者みたいなイメージを作り上げるべきではないと思う。それでなくてもDIYゴッドファーザーみたいな変なイメージがすでにあって辟易しているのに。

Basile... コミュニケーションにおけるすべてのサブカル記号を占領してしまった感もある今のトレンドにはどうやって対処しているの? すべてのものがすでに焦点をあてられ、使われて、洗いざらいもっていかれたともいえる中で、人はどうやっていち個人として存在できると思う? メディアは君がただのコピーであるといい、トレンドは「見ろ、我々はもう先にそれを使ったぞ、お前はニセモノだ!」という中で君はどこから自分の道を歩き続ける力を得ているの? どうしたら2作品も続けて自分のビデオ・パートにJoy Divisionみたいなバンドを使うことができるの?

Alv... 簡単だよ。自分の心に従えばいいんだ。自分のアイディアを守り通せ。自分自身でいろ。トレンドを追ったり、乗っかったりすべきじゃないけど、それでも何か好きなものがあるなら、自分がそれを愛していることを示して、自分のものにすればいい。そうすればリアルなものになるよ。そうするとそこに乗っかってくる人が現れて翌月にはまた新しいトレンドのできあがり、なんてことにもなるだろうけど、でも最後には君がただトレンドに乗っていたわけじゃないとわかってくれる人が少なからず現れるよ。君がそれを生き続けていればね。結果的にはそうなるよ。そして、僕の場合は、1作目にJoy Divisionを使ったわけだけど、またいつかJoy Divisionをサントラに使うことはもうその瞬間からわかりきっていたことだった。たとえ他のスケート・ビデオでも使われていても、Anton Corbijn(アントン・コービン)の映画やバンドをめぐるいろんな流行にも関係なく僕はいまだにJoy Divisionを愛している。バンドの音楽、Ian Curtis、歌詞と自分には深いつながりを感じている。後にも先にもあれほど深く自分に触れたバンドは存在しない。今でも彼らの音楽を聴くと本当につながっている実感がわいてくるよ。その重さは今でも変わらない。世の中みんながロマンティックに仕立てあげられたバンドのイメージや病んだIan Curtisと彼のラブ・ストーリーとか、わけのわからないトレンドに乗るからって僕が彼らの曲を使ってはいけない理由にはならないよ。みんなは彼らの音楽にさえ関心を向けないじゃないか。ファッション・アイコンとしての彼らに、イメージにしか興味ないんだろ。「ええ? だってブレイクする前に自殺しちゃったんでしょ?」とかロマンティックなロックスターのイメージ。そんなのは僕にとってはバンドの間違ったイメージでしかないんだよ。そんなわけのわからないものにつながりなんて見いだせないよ! 僕にとっては純粋で、ハードコアで、孤高の存在、妥協もいっさい無し。それこそJoy Divisionの他のメンバーさえどうでもいいし、実際、New Orderに移行したメンバーたちは許せないくらいだ。ただただIan Curtisが残したものが... 

Basile... でもどうやってこのトレンドだらけの世界を生き続ける? 

Alv... 自分自身を知り、それを守り通さないと。僕はスケートボーディングにおける自分の立ち位置をわかっているよ。15歳だった頃のMadcircleのビデオ・パートと『In Search of the Miraculous』で見せた最新のパートを見比べてごらんよ。滑りは同じものだよ、キック・フリップにウォール・ライド、そりゃ今の方ができが良い部分、逆に衰えた部分、と多少のちがいはあるかもしれないけれど、ほとんど変わらない。これが僕なんだ。それは変えられない。少なくとも僕は何かを生き続けている。髪の毛を黒く染めたり、ドクロのタトゥーを入れてプールを滑ったり、それからテクニカルな技を身につけたりと変化する必要なんてない。そりゃ自分の滑りに変化はあったかもしれないけれど、それは変化というよりも進化だと思う。流れさ。全然ちがうPontusになったわけじゃないだろう? みんな僕が何をするのかはわかってると思う。どうせウォール・ライドかなんかさ。

Basile... リアルでいることは可能だと思う? 

Alv... リアルって何? 個性って何? 僕にとってリアルの意味するものは自分自身でいること。それでいて前例がないもの。それならリアルだろ、誰にも追いつけないくらいに。そして作品に登場する人にはそこに登場する理由があって、物語の一部でもあると感じてもらいたい。だって人生はリアルなものだし、スケートボーディングはリアルなものじゃないか。

Basile... そろそろまとめに入りたいんだけど、スケートボードをはじめて何年になるの? 

Alv... 23年になるね。1987年からだよ。

Basile... 映像や写真の方はどれくらい? 

Alv... 写真を撮りはじめたのは2000年くらいかな。でも2004年にはやめたよ。誰も彼も写真を撮りだしたからね。あと、自分が好きだった写真のスタイルを嫌いになってしまって。ずっとモノクロが好きで、ストリート・ライフとか何気ない生活やドキュメント的なスナップショットに興味があったんだけど、それが一大トレンドになっちゃったからさ。もうほとんどただのアクセサリーになってしまったライカM6でも買って、「イェーイ、俺はデジタルじゃなくてフィルムで撮ってるぜ」とか... 興味が失せたよ。そういう適当なスナップショットみたいなのはどうでもよくなった。

Basile... ある意味Vice世代だよね。若い写真家たちに絶大な影響を与えている。すべてのイメージを1枚単位でしか考えていなくて、それがよく見えることもあるんだけど、ものごとのはじまりや終わりについて構うことがないよね。みんなその流れに飲み込まれてしまっている。

Alv... Vice世代は完璧なパッケージだよね。「ハ〜イ、俺DJでさ、アートとかグラフィック・デザインもやってるし、モデルしたり、自分のクラブもあるし、マイスペースフェイスブックも、ホームページもあるよ。あと写真を撮ったり、絵も描いてて今度どこそこで展示会やるんだ。おまけに俺、料理もうまいよ。ギャルやモデルたちとパーティーしてコカインやるのも大好き」て感じで。もう何でもやってればいいけどさ、最低にしか思えない。でも業界にとってはそこに入り込んで何でもかんでも売りまくるのに最良の世界なんだろうな。

Basile... 写真にとってはむずかしい時代なのかな? 

Alv... デジタル革命のおかげで誰にでもよい画やポートレイトが撮れるようになったからね。何度でも撮り直せるし、すでにどこかで特定のイメージを目にしているからどういう作品にしたいのかわかった上で作業するからいつかそこに到達できるわけさ。写真はかつてないほどにむずかしいものになってしまったんじゃないかな。技術が問題じゃなくて、内容や対象への興味、そのテーマを何年も何年も追い続けることが大切なんだよ。本当に時間をかけてさ。でもいまや写真のスピードといったら、バーンと撮ってクリックひとつで2時間後にはネット上にのっている。でも僕にとって写真は時間をかけて、たくさんのアイディアを込めるもの。だから写真じゃなくて映像作りに集中することにした。ただファインダーに収めて撮影するだけですごい作品ができあがることなんてないからね。映画の方が面白いものを作り上げるのがむずかしいと思う。すべてをひとつの形にまとめあげるのは写真よりもずっとむずかしい。だから僕はスケートボーディングに関する映画作りにむかい、これからも何かしら作り続けられたらいいなと思っているんだ。

Thank you

Alv

インタビュー中では「アートの世界には突き動かされない」、あるいはもう写真は撮らない(翻訳の許可をもらえなかったインタビューでも写真については「祖父と父が映像や写真を撮るのが好きだったからもう際限なく素材がある。家族のアーカイヴは果てしないものでその古い映像や写真から僕はたくさんのインスピレーションを見いだしている。多分、この記録は1910年に始まって2006年まで続いているね。アルヴ家は行動をすべて記録することに取り憑かれていたともいえる。でもそういう姿勢、やり方は面白いと思うよ。何かを記録して、それを保管して、そしてひとまず10年ほどそれを忘れ去って寝かしておくんだ。10年や15年間しまっておくことによってそれらがより良い素材になっていくと思うんだよね。僕もたくさんのネガを現像もせずにどこかにしまってある。写真はどこかの箱に入ったまま、この世に出てくるのを待っているんだ。2025年あたりに何枚か現像するところから始めようかと思ってるよ。」)とも発言していましたが、最近、ブログで頻繁に自身の描いた絵をみせてくれたり、また暗室を作りたいとも発言していたので心境の変化があったのかメールで問い合わせたところ、以下のような返事をいただきました。「何をするにせよ、修練を積んで磨いていくことが自分にとって重要なんだ。作品は常に自分とその作品との戦いだと思っていて、僕はまだまだ自分が思い描いているところまでは到達していない。死ぬまでには自分のアイディアを100%、完璧に具現化するのがゴールなんだ。その1点に向かってやり続けている。そのために使う道具が自分の体であろうが、映像を撮るカメラだろうが、写真用のカメラだろうが、絵画だろうが、それはあまり問題にならない。」つまり、写真家や絵描きとして「売れる」ことには興味はなくて、あくまで自分を100%表現することが究極の目標。彼が携わる作品にこれだけ惹かれてしまう理由がここにあったのか、と改めて思い知らされました。常に「スケートボーディングはトリックだけじゃない」と発言しつづけていますが、それにならうなら「Pontus Alvはスケートボーディングだけじゃない」からこれだけ僕たちの胸に響くのでしょうね。スケート・ビデオはもともと音楽、ファッション、映像とスケートボーディング以外の様々な要素が複合したメディアではありますが、彼の作品、あるいは彼自身は常に「自分」や「自分の理想」から出発し、同時に到達点ともしているからこそ多くの要素を内包し、スケートボーディングの主流とは段違いの強さを持っているのか、とその言葉から気付かされました。これから先、何が待ち構えているのか楽しみでなりません。