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夢見る文系スケートボーディング愛好家

CHRIS PFANNER interview from Skateboarder magazine

DELUXEではじまった企画「PFANNER PFRIDAYS」、第一回目の締めが2009年のSkateboarder誌10月号の表紙を飾ったキックフリップの映像だったのを見て再び雑誌を取り出しては読み返し、やはり和訳したい!という想いが再燃。 編集長Jaime Owensにメールをしたところ、快く和訳をブログで発表する許可を頂きました。
ナイジェリア生まれのオーストリア人、そしてANTI-HEROにフック・アップされたのをきっかけにいよいよスケート王国アメリカへと切り込みはじめた彼の半生が紹介されたインタビュー。 どうぞお楽しみください。

CHRIS PFANNER interview taken from Skateboarder magazine, October 2009 Volume 19, No.2 with permission
original interview by Seb Carayol
translated by Katsushige Ichihashi

南カリフォルニアで生まれたわけでも、育ったわけでもない...「なんと退屈な」 オフスプリングといったミュージシャンらとつきあうどころか、彼はナイジェリアのラゴスであのアフロ・ビート・マスターのフェラ・クティが住んでいたストリートでサッカーに興じていた... 「ダサくね?」 そして彼は11歳のときに単身オーストリアに送られ、そこで初めての黒人として全寮制の学校で過ごすはめになり、地元のスキンヘッド達にいびられていた... 「眠い話」 しかし、そこで彼はある賭けをきっかけにスケートボードと出会い、体罰のない人生を謳歌し、数年後には史上もっともいかしたボード・カンパニーのひとつに加わることとなった... 「あくびが出そうだ」「まだ続くの?」 まだまだ、最悪なのが控えている:自分の稼いだ金は宝石や投資に回すどころか、彼はアフリカにいる家族に送金をしているらしい... 「もう殺してくれ」 クリス・ファナーの人生はどうやらテレビ番組向けではなさそうだ。

__ナイジェリアで育ったわけですが、スケートボードを始めたのもそこで?
CHRIS PFANNER(以下PF) : いや、違うんだ。僕は首都のラゴスで生まれて11歳までそこにいたけど、当時はスケートボードの存在すら知らなかった。ただただストリートでサッカーをしてた。父がオーストリア人で、母は実はガーナ人。父はナイジェリアで布やレースを作る縫製機械の技師として働いていて、母はカジノで働いていたんだ。そこで二人は出会ったみたい。

__そこでの生活はどのようなものでしたか? 
PF : まず退屈することのない、面白いところだった。国の情勢はさておき、僕は素晴らしい子供時代を過ごしたよ。まぁ、白昼の武装強盗とか、道ばたに転がっている死体を目の当たりにしたりとか、ちょっとみんなとは違う経験もしたけどさ。

__本当に自分の目の前で? 
PF : うちにも二度、武装した強盗団に家に侵入された。僕は犯人を見たわけじゃないけど、彼等が去った後に家の夜警をしてくれてた人の耳が削ぎ落とされていたり、ものすごいことになっていたのは見たよ。ひなたもあれば、日陰もあるものさ。貧困はすごく残酷なものへと続いてしまうこともある。ナイジェリアの情況は厳しいものだったから、どうにか生き抜いていこうとする人達をとがめるようなことはできないよ。政府やなんかが変化して、経済が良くなってお金が人民の懐にも入るようになることを祈ってる。今はまだ上にいる連中がお金を独占しちゃってるから。

__そういった情況から両親はあなたをオーストリアへ送り出したのですか? 
PF : それだけじゃなかったと思う。ヨーロッパだと保険や社会保障があって人の生活は守られているだろ? ナイジェリア国籍だと不自由も多くなるだろうと両親は僕らが生まれたときからオーストリア国籍にしてくれていて、11歳になったときにオーストリアブレゲンツの全寮制の学校に入れてくれたんだ。1999年まではひとりでオーストリアにて、その後みんなも移ってきたよ。Blumen Strasse Bundes Gymnasiumという学校(Gymnasiumは中学と高校を一緒にしたような中等教育学校。無理矢理に訳すと「公立花道中等部」)で、多分いい学校だったんじゃないかな。でもそこになった理由は、そこが唯一、僕の肌の色を問題視しなかったからなんだけど。

__肌の色はそんなに問題だったのですか? 
PF : 僕を入学させるのは難しい、僕にとって良い結果は得られないだろうと父に面と向かって言った学校もあったくらいさ。父はかなりがっかりしていたね。でも最後にあの学校が見つかって、万事オッケーだったけど。

__規律の厳しい学校でしたか? あるいは自由な校風だったのでしょうか?  
PF : カトリックの学校だったからある意味厳しかったけど、アフリカから来た僕にとっては天国だったよ。ナイジェリアだと何かまちがいを犯せば先生に棒で叩かれていたからね。オーストリアでの罰なんてノートに1ページ「もうしません」と書きなさいって言われる程度。え? それでいいの? 最高! て感じ。

__でも最初は言葉(ドイツ語)も話せなかったんですよね? 
PF : 学校でただ一人の黒人として、いつ再会できるかも分からない家族からひとり離れて、何を言ってるのかも分からない人達に囲まれて過ごすのは参ったけど、他に手段がないとなれば結構どうにかなっちゃうものだよ。

__スキンヘッドともめたりしたそうですね。 
PF : うん、クレイジーだった。一番面白い話は、学校帰りに4人組のスキンヘッドにタバコをくれとか何とか因縁をつけられて電車から押し出されて、思わず持っていたスケートボードで一人をブッ叩いて走って逃げたことかな。後でまたその連中にバッタリ会ったり、いざこざは絶えなかったけど、時が経つにつれて移民も増えてきたからそういったスキンヘッドとかナチ的な要素は表立たなくなっていったね。今はまったく問題ないよ。

__極右の政治家、Jorg Haiderの存命中には一般市民のなかでもそういった人種差別的な空気は流れていましたか? 
PF : 間違いなくあったよ。オーストリアは小さな国で、できればみんな自分だけのものにしておきたいんだよね。オーストリアにはトルコからの移民も多い。最初は出稼ぎとして来て、稼いだら家族を呼び寄せてね。いまだに移民達に仕事を取られるのは許せないとか過剰な反応をする人はいるよ。でもさ、オーストリア人がやりたがらないような仕事を一生懸命やっているわけで。自分達の方が上だと思っているオーストリア人はいまだにいるね。

__Haider氏が交通事故でなくなった後に彼のゲイの恋人が登場して最高でしたよね。 
PF : かなりの衝撃だったよ(笑) すごかった。世界一「ナチ」で、あらゆるものに反旗をひるがえしていた男がゲイだったんだぜ。 

__(オーストリアの)学校時代にスケートを始めたんですか? 
PF : うん。寮にランプを作ったやつらがいて、よくそこで自転車に乗っていたんだよね。で、学外の近所のスケーター達がいつもやってきてはそこで滑って僕らの場所の無茶苦茶にしてて、ある日そいつらと賭けをしたんだ。スケートボードなんて簡単で、デッキ1枚分くらいはオーリーで余裕で飛び越せる、もしも俺が飛べたらもうお前達はここには来るなという賭けに挑んで。丸一日かかってなんとか飛び越せて、賭けには勝ったけど... それがあまりにも面白くてさ! もうその日から俺もデッキを手に入れなきゃ、と思って。12歳の時に堅信礼(キリスト教の儀式。幼児期の洗礼に続く、大人になるための儀式)があって、みんなはそのお祝いに時計とか買ってもらっていたけど、僕は父にスケートボードをねだった。めったに会えないから、たまに父がオーストリアに来ればちょっと甘えさせてくれたんだ。GRAFFIXのボードだったよ。 

__そこからまた賭けでさらにいいボードを手に入れたんですよね? 
PF : 寮生からゲットしたよ。学校の10段ステアを飛び降りれたら新しいデッキを買ってやるよとか言われて。もう死にものぐるいで、バッタバタやっちゃったよ。なんとかメイクして、新しいBLINDのデッキを手に入れた。 

__YAMA SKATEBOARDSはどのように始まったのですか? 
PF : 北ドイツにいた友達のAlex Kramerがよくスノーボードをしにオーストリアに来ていたんだけど、ある日、引っ越してこっちで働きはじめたんだ。僕らの住んでいるところからだと一番近いスケート・ショップまでは車で二時間もかかるからって自分でブレゲンツにスケート・ショップを開いたんだよね。彼の叔父がスポーツ店をやっていたからそこの地下室を使わせてもらって。みんなが釣り用のブーツとか雨靴を置いてる叔父さんの店の中を通ってカウチひとつとデッキが何枚かだけある地下室へと入っていく様はなかなか滑稽だったよ。荷物がちゃんと届かなくて、誰も乗らないような8.5インチのデッキだけが壁に吊ってあった時期もあったな。本当に小さなビジネスとして始まったんだ。何年かすると店を全部受け継いで、地下から地上に上がって、会社にするとか大それたことは考えずに身内のためだけにデッキを作り始めて。その後にようやく、ちゃんとしたボード・カンパニーとしてフル・カタログを作ったんだ。表紙は僕らがガス・マスクをつけて、チェーンソーを手に火の前に並んで「keep skateboarding illegal(スケートボーディングを違法のままに)」だった。

__そのローカルの輪以外からも認識されるようになったいきさつは何でしょうか? 
PF : まずはYAMAから始まって、僕らは最初のビデオ「F**k Off」を作ったときにそれをVANSに送ったんだよね。彼等がオーストリア人のライダーを募集してるって聞いて。それで僕はVANSに拾われて。その後、CARHARTTのために写真を撮っていた友達のAlexを通じてCARHARTTのLars Greiweに会ったり。

__CARHARTTといえばモンゴルへの旅がありましたよね。いったいどんな企画だったのですか?
PF : あれは友達の写真家が(彼は考古学も勉強していて何年か前にモンゴルに行っていた)首都のウランバートルにすごいクオーター・パイプのあるでっかいスケート・パークをみつけたのがきっかけで、その写真をCARHARTTのLarsに見せたんだ。その二年後の2004年に僕らはやっとそこに行けたんだけど、すでにパークはなくなってて、クオーター・パイプの残骸しか残ってなかったんだよね。たしか道がちゃんと舗装されていたのはウランバートルくらいだったんじゃないかな。見つけたスポットのほとんどが泥だらけだったけど、たくさん滑ったよ。あと、しこたまウォッカを飲んだ。 

__インディー・ジョーンズのような飲み対決で? 
PF : モンゴルの兵隊達と同席したことがあって、ウォッカ・ミッションが発令した感じ。ずっと一緒にスケートしてきてたダチのMuki Rustigがひとりの兵隊に挑んで、ほどなく彼をテーブルで眠らせることに成功したんだ。どっちも瓶2本ずつくらい飲んでたんじゃないかな。で、Mukiの勝ち、てなったけど、最終的には勝ち負けもくそもなかったね(笑) その後にモンゴルの家庭を訪ねて、羊の臓物をお湯でそのまま煮た料理とか、羊乳酒とか現地のご馳走に招待してもらったんだけど、Mukiはもう飲み過ぎで胃がすごいことになってたのにノーとは言えなくて、結局ほとんどの料理を自分とか俺の上着のポケットに詰め込んで食べたふりをしてやり過ごしてた。
[訳者注:そのモンゴルへのスケート・トリップの全貌は現在も入手可能な写真集『DIRT OLLIES A Skateboard Trip To Mongolia』(ISBN 978-3-939181-40-0)で見ることができます。DVDも付いていてスケート・シーンもたっぷりあり]

__そこから戻って、バルセロナに引っ越したのですか? 
PF : それは2005年の中頃になるね。オーストリアで学校も卒業して、コンテストで勝って少しお金も貯まったりして、人生がいい感じで動いていて。寒い冬を前にして、思い切ってどっかに行くか!て感じでオーストリアを飛び出しちゃった。

__そのバルセロナANTI-HEROと出会ったんですか? 
PF : 2007年の夏にVANSクルー全員がバルセロナに借りたアパートで一ヶ月滞在して、一緒に滑ることになって。それまで僕が何度かアメリカに行ったときに知り合った人達もいたんだけど、まさかJulien(Stranger)まで来るとはね。でも彼は撮影とか、ひたすら飛び降りるだけのでかいスポットには興味がないというか、いつも身をひいていた感じで。たくさん滑べるけど、撮影はきらいだったみたい。それをきっかけにDELUXEからTHUNDERとかSPITFIREの商品をもらえるようになったんだ。Darin Howardによく僕が撮影したものを見せたりして密に連絡を取り合うようになって、サンタ・モニカでやったあのトリックをみてREALに入らないかときいてくれたんだよね。 

__サンタ・モニカ? 
PF : 何だろ、自分のトリックをいちいち解説するのは変な感じだね(笑) トリプル・セットをキャバレリアルしたやつさ。ま、である日、REALを打診されたわけだけど、バルセロナTNT(Tony Trujillo)、John(Cardiel)とJulien(Stranger)に会っちゃってるし、彼等の滑りとスケートボーディングに対する姿勢にはいつも魅了されてきたから、思い切って自分としてはREALよりもANTI-HEROの方がしっくりくると思う、と返事してみた。自分がオーストリアでYAMAを通じて貫いた考え方やアプローチはANTI-HEROに通じていると思うんだ。一緒に滑ってきた連中は誰もトレンドなんて追わなかった。ビデオもいつだって一年遅れで僕らの手元に届くような情況だったし。僕達にとって、スケートボードは世界へと踏み出すための第一歩だった。スケートボードが自分達をどこまで遠くへと運んでくれるかを試し続ける日々だった。ANTI-HEROも同じだろ? だから絶対そっちの方が合うと思ったんだ。

__テントを買わないといけませんね。
PF : 大丈夫、もうゲットしたよ。

__ナイジェリアに戻られる予定はありますか? 
PF : 最後に行ったのは姉の一人が結婚した8年前だ。まだ友達や家族もいるから絶対に近くまた帰りたいんだけどね。2010年のクリスマスには家族全員そこに集まろうという計画があるんだけど、楽しみにしてるよ。

__長い間、そこへ仕送りも続けていたそうですね。 
PF : まぁ、そんなに物入りな年頃でもなかったから、何か家族を手助けできる機会があればあまったお金を送ってたよ。自分がハッピーで、家族も幸せにできれば、きっと自分の魂にも反映されるんじゃないかな。それが人生ってもんでしょ。ダイヤのネックレスとか馬鹿げたものよりもずっといいよ。

__最後に何かメッセージや感謝の言葉などあれば。
PF : 家族と友人達、愛する彼女のAnjaのサポートと愛情に感謝したい。ANTI-HERO、VANS、VOLCOM、THUNDER、SPITFIRE、NIXON、EASTPAKといった僕のスポンサー達にもこんなライフスタイルを実現させてくれてありがとう。このインタビューを作成に関わってくれたみんなに、特にSkateboarder MAGAZINEの面々に感謝。ANTI-HEROクルーにYAMAギャング、BBCクルー、Peter Dericks、Jamie Hart、Robin Fleming、Lars Greiwe、Alex Kramer、Bertrand Trichet、Karin Muehlemann、Alexis Jauzion、Hans Claessens、Tino、Ryan Flynn、Leo Sharp、Antton Miettinen、そして名前を入れるのを忘れちゃってたらその人にもありがとう。Never stop dreamin'.



僕が初めてChrisを観たのはPontus Alvの『Strongest Of The Strange』DVDのモンゴル・パートだったのですが、さすがに名前が分からず。 写真集『Dirt Ollies』ではじめてMukiも含めて、顔と名前が一致しはじめました。 とにかくあのアフロとでかいトリックが堪らなくカッコ良くてただただ憧れます。 YAMAからANTI-HEROへ、CARHARTTからVOLCOMへとキャリア・アップしていくのが嬉しいような、寂しいような... でもやっぱりとことん行って欲しい。 日本でもファンが増えることを祈っております!